花のような

2012年4月9日月曜日

いかにして原発が日本に持ち込まれたか

ビキニ事件の衝撃
1954年3月1日におこなわれたビキニ環礁における水爆実験。
爆発の規模は、設計者たちの予想をはるかに超え、立ち入り禁止区域外で操業をしていた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人に大量の死の灰をあびせることとなった。

アメリカ政府は事件の政治的な反響への対策を考えた。
「日本漁民への被曝によって引き起こされた混乱の現在の状況は、共産主義者たちに、日本中により甚大な潜在的効果」を生み出すと懸念。
意味がイマイチ分かりにくいが、日本の左翼と言われる人たちの反核兵器の運動の高揚を懸念したのだろう。

日米原子力協定
そして、「原子力エネルギーの非軍事的利用における力強い攻勢こそ、この被害を最小化させる」と指摘した。

そして日米原子力協定が結ばれていくのだった。
日米政府とその関係者たちの思惑によって、その成立がはかられた。
もともとの成り立ちが技術的な検討よりも、政治的判断が先行していた。

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